金子堅太郎

日本政治家、《明治憲法》起草者之一

金子堅太郎[1](日語:金子 堅太郎かねこ けんたろう Kaneko Kentarō,1853年3月13日—1942年5月16日)[2],是日本伯爵明治時期政治家法學家外交官。作為哈佛大學法學院的畢業生,他在從政生涯中充分運用了他在美國法律界的人脈,致力於推進與美國維持良好的外交關係,並於1900年創建了「日美友誼協會」。金子曾參與協助伊藤博文首相制定了《明治憲法》與《皇室典範[3],因此也被譽為「憲法守護者」(憲法の番人[4]

金子堅太郎
個人資料
出生(1853-03-13)1853年3月13日
江戶幕府筑前國早良郡鳥飼村日語鳥飼村 (福岡県早良郡)(今 日本福岡縣福岡市中央區鳥飼日語鳥飼 (福岡市)
逝世1942年5月16日(1942歲—05—16)(89歲)
 大日本帝國神奈川縣三浦郡葉山町恩賜松荘
國籍 日本
母校哈佛大學
職業法學家
外交官
政治家
團琢磨(左)與金子堅太郎(中)及栗野慎一郎(右)於1875年在美國留學期間合影

參考文獻

  1. ^ 金子堅太郎 ポーツマス講和会議 明治38年(1905年). [2022-07-04]. (原始內容存檔於2016-03-03). 
  2. ^ 「彙報 官庁事項 官吏薨去及卒去」『官報』第4604号、昭和17年5月19日、p.614. [2022-07-04]. (原始內容存檔於2022-07-05). 
  3. ^ Kaneko, Kentaro. Kanda, James , 編. The Kaneko Correspondence. Monumenta Nipponica. 1982, 37 (1): 44–76. JSTOR 2384295. doi:10.2307/2384295 . 
  4. ^ 佐々木(2004)

參見

  • 松村正義「日露戦爭と金子堅太郎: 広報外交の研究」 新有堂、1987年。ISBN 4-88033-010-8
    • (英訳) Matsumura Masayoshi, Baron Kaneko and the Russo-Japanese War: A Study in the Public Diplomacy of Japan (2009) ISBN 978-0-557-11751-2
  • 豬木正道『軍國日本の興亡』中央公論社<中公新書>、1995年3月。ISBN 4-12-101232-1
  • 佐々木克「金子堅太郎」小學館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小學館、2004年2月。ISBN 4099067459
  • 前坂俊之『明治三十七年のインテリジェンス外交――戦爭をいかに終わらせるか』祥伝社<祥伝社新書198>、2010年。ISBN 4396111983
  • 『金子堅太郎著作集』日本大學精神文化研究所
  • 藤井新一『帝國憲法と金子伯』大日本雄弁會講談社
  • 高瀬暢彥『金子堅太郎「政治論略」研究』日本大學精神文化研究所
  • 松村正義 『金子堅太郎 槍を立てて登城する人物になる』ミネルヴァ書房「日本評伝選」、2014年 ISBN 978-4-623-06962-0
  • 霞會館華族家系大成編輯委員會『平成新修舊華族家系大成』上下巻、霞會館、1996年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 浦辺登著『霊園から見た近代日本』弦書房、2011年、ISBN978-4-86329-056-3
  • 浦辺登著『勝海舟から始まる近代日本』弦書房、2019年、ISBN978-4-86329-193-3
  • 浦辺登著『玄洋社とは何者か』弦書房、2020年、ISBN978-4-86329-154-6

外部連結

官銜
前任者:
清浦奎吾
  日本司法大臣
1898 – 1898
繼任者:
清浦奎吾
前任者:
伊東巳代治日語伊東巳代治
  日本農商務大臣
1900 – 1901
繼任者:
大石正巳日語大石正巳