昭南神社
昭南神社(日語:昭南神社/しょうなんじんじゃ Shōnan Jinja)是第二次世界大戰中日本軍在日佔馬來昭南特別市(新加坡)麥里芝蓄水池建立的神社。1942年10月竣工,1945年8月日本投降後拆除。
昭南神社 | |
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昭南神社/しょうなんじんじゃ Shōnan Jinja | |
基本資訊 | |
位置 | 日佔馬來昭南特別市(新加坡) |
宗教 | 神道 |
主祭神 | 天照大神 |
建築詳情 | |
建立時間 | 1942年 |
拆毀時間 | 1945年 |
地圖 | |
前身
1922年2月11日,英國海峽殖民地新加坡的橡膠園老闆大平源四[註 1]在湯申路變為湯申路上段附近的自家橡膠園建造「照南神社」[2][註 2]。祭神為天照大神,永田重彥充任名義神官。戰前日僑稱之「大神宮」,在新年、七五三、婚禮等時機來此參拜[2][3]。
1942年2月,日本軍剛佔領新加坡,第25軍參謀林忠彥少佐表彰當時在日僑家中擔任家務工,戰亂時將家祠神體移至安全處所的兩名馬來人[4][註 3],並問市職員:「戰前新加坡神社與祠是如何管理的[4]?」職員說:「現在剛佔領,忙著修理電氣水道,恢復市內秩序,顧不了神社。」林表現出「狂熱信徒特有的驚人憤怒樣貌」,怒斥:「你們沒有品性。顧不了神社是怎麼回事?恢復秩序是為了甚麼?大家快快商量具體辦法[5]。」
興建
不久照南神社擴建[6],新加坡郊外麥里芝蓄水池西端新加坡島嶼俱樂部高爾夫球場一帶新建「昭南神社」的計畫發表[5][註 4]。
柔佛蘇丹向軍政監部財務部捐贈5000元以建造神社[6][註 5]。
軍司令部命令橫山部隊[註 6]興建神社,建造時間自1942年5月至10月[9],動用2萬名盟軍戰俘[10]。旱季即將結束時,橫山部隊調往緬甸參加英帕爾戰役,田村部隊(工兵第5連隊)接手施工[11]。神社完工後,橫山工兵大佐獲譽「造園天才」[12]。但橫山部隊士兵待俘虜以高壓暴力,評價不佳;田村部隊將兵態度與其他日本軍部隊差異很大,待俘虜較好,受俘虜感謝[7][13]。
1942年10月,昭南神社竣工[14][註 7]。從高爾夫球場會所一側穿過球場鋪有參道,從西邊流入蓄水池的溪流好似五十鈴川,其上架有漆紅色的太鼓橋(拱橋的一種),橋前後有鳥居,地面鋪有碎石,橋後鋪設有石階。拜殿與本殿用日本內地運來的柏木建造[10][15]。
活動
建成後,神社的管理權移至昭南特別市,中村社司與本田神職自內地赴任,在1942年11月[註 8]的佳日舉行「昭南神社遷宮祭」[16][12]。大達茂雄市長為齋主,寺內壽一南方軍總司令官進奉玉串料,之後當地各團體代表參拜[16][12]。
遷宮祭後,神社向一般人開放,與山下奉文同白思華會見處福特汽車工廠等一同成為戰地考察路線,有許多日本人及當地人訪問[17][18][19]。
第25軍軍政監部請馬來亞、蘇門答臘各州蘇丹到新加坡開會,官方承認蘇丹的伊斯蘭教首長地位、尊嚴與財產所有權利[20]。1943年1月20日開會前,馬來亞、蘇門答臘各州蘇丹參與訪問昭南神社[21],第25軍司令官齋藤彌平太中將卻令信奉伊斯蘭教的蘇丹參拜昭南神社[18]。
破壞
篠崎 (1976,第205頁)稱1945年8月18日第7方面軍司令官板垣征四郎大將麾下的部隊長、昭南軍政監部與市政廳幹部投降,翌日起忠靈塔與昭南神社遭爆破拆除;而新加坡日本人會史蹟史料部 (2004,第167頁)稱是由建立神社的軍隊自己爆破。Van Cuylenburg (1988,第212—213頁) 稱昭南神社解放時由盟軍廓爾喀兵破壞,Lee (2007,第102頁)稱由解放軍破壞。
舊址
日本投降後,關押同盟國戰俘的抑留所得到解放,關停的高爾夫球場再度開放[18]。
2002年,新加坡國家文物局指定昭南神社遺址為國家歷史遺蹟,但不加以維護或發展[23]。2015年時通往拜殿的石階、手水鉢的遺構仍然殘留[24]:10。
註釋
- ^ 在勿拉士峇沙路萊佛士酒店附近經營「大平洋服店」[1]。
- ^ 許 (1986,第230頁)稱1938年,新加坡日本人會在島北部距市區5.5英里湯申路山丘上、永福虎所有的橡膠園建造「照南神社」。
- ^ 篠崎 (1978,第62頁)稱一位馬來人保管作為照南神社神體的御幣與札,向福康寧的警備隊司令部報告,受到為肅清華僑從軍司令部派遣至警備隊司令部的林少佐感謝。
- ^ 篠崎 (1976,第212頁)稱橫山部隊在昭南島內選定與伊勢神宮地形相似處建設神社,而津吉 (1953,第112頁)稱計畫包含建設預定地。
- ^ 小田部 (1988,第149頁)稱柔佛蘇丹1942年9月13日以「忠靈塔紀念寄附」給軍政顧問德川義親5000日圓。
- ^ 第15獨立工兵連隊[7],參與修復馬來亞戰役中英軍破壞的橋梁[8]。
- ^ 二松 & 11987,第80頁) 稱1942年10月與忠靈塔同時竣工,舉行式典,11月將建設神社的俘虜移至泰緬連接鐵道工地。津吉 (1953,第112頁)稱1943年正月只是大部份完工,篠崎 (1976,第213頁)稱遷宮祭在1942年11月的佳日舉行,篠崎 (1978,第63頁)稱是1943年初的佳日。小田部 (1988,第149頁)稱忠靈塔1942年9月10日舉行除幕式。
- ^ 篠崎 (1978,第63頁)作1943年初。
參考資料
引用
- ^ 新加坡日本人會史蹟史料部 2004,第30頁.
- ^ 2.0 2.1 2.2 新加坡日本人會史蹟史料部 2004,第167頁.
- ^ 篠崎 1978,第62頁.
- ^ 4.0 4.1 津吉 1953,第111頁.
- ^ 5.0 5.1 津吉 1953,第111—112頁.
- ^ 6.0 6.1 許 1986,第230頁.
- ^ 7.0 7.1 二松 1987,第78—81頁.
- ^ 篠崎 1976,第212頁.
- ^ 二松 1987,第77—78, 80頁.
- ^ 10.0 10.1 篠崎 1976,第212-213頁.
- ^ 二松 1987,第79頁.
- ^ 12.0 12.1 12.2 篠崎 1976,第213頁.
- ^ Edwards 1992,第70—71頁.
- ^ 二松 1987,第80頁.
- ^ 津吉 1953,第112頁.
- ^ 16.0 16.1 篠崎 1978,第63頁.
- ^ 篠崎 1978,第64頁.
- ^ 18.0 18.1 18.2 篠崎 1976,第214頁.
- ^ 津吉 1953,第113頁.
- ^ 小田部 1988,第150—151頁.
- ^ 小田部 1988,第151頁.
- ^ ニュース映像 第142号. NHK. 1943-02-24 [2021-10-07]. (原始內容存檔於2021-10-07) (日語).
- ^ Lee, Gracie. Syonan Jinja | Infopedia. eresources.nlb.gov.sg. [2022-03-18]. (原始內容存檔於2022-04-25).
- ^ 稻宮康人. 中国・台湾・サイパン・シンガポールの神社跡地報告. 非文字資料研究センター News Letter (神奈川大學日本常民文化研究所 非文字資料研究センター). 2016-09-30, 36 [2021-10-07]. ISSN 1348-8139. (原始內容存檔於2021-10-08) (日語).
來源
- Lee, Geok Boi. Singapore Heritage Society , 編. 日本のシンガポール占領-証言=「昭南島」の3年半. 由越田稜翻譯. 凱風社. 2007. ISBN 9784773631029.
- 新加坡日本人會史蹟史料部. 戦前シンガポールの日本人社会-写真と記録 改訂版. 新加坡日本人會. 2004-05-21.
- Edwards, Jack. くたばれ、ジャップ野郎!-日本軍の捕虜になったイギリス兵の記録. 由薙野慎二; 川島めぐみ翻譯. 徑書房. 1992-07-10. ISBN 4770501102.
- 小田部雄次. 徳川義親の十五年戦争. 青木書店. 1988. ISBN 4250880192.
- Van Cuylenburg, John Bertram. 思い出のシンガポール‐光の日々と影の日々. 幻想社. 1988. ISBN 4874680550.
- 二松卿彥. 昭南島の頃. 「南十字星」創刊20周年記念復刻版 (新加坡日本人會). 1987: 74—82.
- 許雲樵; 蔡史君 (編). 由田中宏; 福永平和翻譯. 5 昭南時代の新聞事業. 日本軍占領下のシンガポール (青木書店). 1986: 227—235. ISBN 4250860280.
- 篠崎護. シンガポール占領と『昭南』時代‐私の戦中史‐. 「南十字星」10周年記念復刻版‐シンガポール日本人社会の歩み (新加坡日本人會). 1978: 57—79.
- 篠崎護. シンガポール占領秘録‐戦争とその人間像. 原書房. 1976.
- 津吉英男. 田村吉雄 , 編. 乱れた軍政. 秘録大東亜戦史 6. マレー・太平洋島嶼篇 (富士書苑). 1953: 108—120.