武藤山治

武藤山治(日語:武藤 山治むとうさんじ Muto Sanji,1867年4月5日—1934年3月10日),是日本實業家銀行家政治家。他曾受聘於三井財閥經營紡織業生意長達34年,倡導了「經營家族主義」與「溫情主義」的企業理念。武藤在1923年4月組建實業同志會日語実業同志会[1],並於次年在大阪府選區當選為眾議員。他的黨在議會長期是僅次於政友會以及民政黨的第三大黨,但隨着1932年他從政壇隱退,實業同志會亦隨即解體。其後他因為揭露帝人事件而遭到當局的迫害,1934年3月,他在神奈川縣鎌倉郡遭槍擊身亡[2]

武藤山治
武藤山治議員 (1934年)
出生1867年3月1日 編輯維基數據
Jaike 編輯維基數據
逝世1934年3月10日 編輯維基數據 (66歲)
母校
職業商人、書法家、銀行家政治人物 編輯維基數據
政黨實業同志會 編輯維基數據
兒女Itoji Mutō 編輯維基數據
獎項藍綬褒章 編輯維基數據

參考來源

  1. ^ 武藤山治69紡績王から政治家、新聞人に転身したリベラリスト武藤むとう山さん治じ(1867-1934)鐘淵紡績 神奈川県庁
  2. ^ 高松宮日記2巻263-264頁『六月九日(略)東京での話で、武藤氏の暗殺は刺客をまたその場で殺した人があるのださうだ。刺客の頭の弾丸ハ「ピストル」が異る弾丸ださうだ。その黒幕はまだ不明とか。ほんとに世の中がメンドウになる。そしたらハルピンの伊藤侯の殺されたのも、安重根ではなく、その時は弾丸とピストルを比べなかつたから、どうも近くの二階窓から打つたらしいと雲ふ(その時ゐた人の話で疑つてゐるとのこと)。』

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