清末藩
清末藩(日语:清末藩/きよすえはん Kiyosue-han */?)又称为长府新田藩(日语:長府新田藩/ちょうふしんでんはん Chōfu-shindenhan */?)是日本长门国丰浦郡清末的藩[注 1],为长州藩支藩长门长府藩的支藩,承应2年10月12日(1653年12月1日)创藩,享保3年4月15日(1718年5月14日)废藩,享保14年10月26日(1729年12月16日)再次创藩,明治4年7月14日(1871年8月29日)废藩[2]。
清末藩 | |
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别称 | 长府新田藩 |
日语汉字 | 清末藩 |
平假名 | きよすえはん |
罗马拼音 | Kiyosue-han |
所在地 | 长门国丰浦郡清末 |
藩厅 | 清末阵屋 |
大名家 | 毛利家 |
伺候席 | 柳间 |
石高 | 10,000石 |
藩校 | 育英馆 |
人口 | 11,058人 |
表高是10,000石,源于庆长15年(1610年)时的检地,宽永2年(1625年)时是20,000石,其后宝历12年(1762年)时是22,252石左右,宽政2年(1790年)时是23,430石左右,文化11年(1814年)时是23,142石左右,明治3年(1870年)时则是23,091石左右[1]。藩厅是清末阵屋,藩校创建于天明7年(1787年)的育英馆,安政4年(1857年)时改名为御稽古场,庆应4年(1868年)时改回为育英馆,人口是2,479户11,058人。武家屋敷方面,江户藩邸上屋敷位于芝爱宕下广小路、下屋敷位于芝西之久保[2],藏屋敷则位于江户堀三丁目[3][注 2]。
历史
承应2年10月12日(1653年12月1日),长门长府藩藩主毛利纲元遵从其父毛利光广以及祖父毛利秀元的遗愿,分知10,000石予其叔父毛利元知,领地是长门国丰浦郡12村2浦。翌年9月,元知初次前往长府以及清末。万治2年(1659年)3月,元知在清末村设置阵屋(清末阵屋)。天和3年闰5月14日(1683年7月8日),元知在江户死去,其子毛利元平在同年8月3日(9月23日)继位。享保3年4月15日(1718年5月14日),长府藩藩主毛利元矩死去,江户幕府在长州藩的请求下让元平继任为长府藩藩主,改名毛利匡广,清末藩因而废藩[2][1][7]。
享保14年10月26日(1729年12月16日),匡广之子毛利师就继任为长府藩藩主,他分知清末10,000石予其弟毛利政苗,清末藩再次创藩。宝历5年(1755年)2月,清末藩由于财困而获长州藩租借吉田宰判埴生村、松屋村以及船木宰判高泊村内200町(约1.98平方公里)[注 3],为期十年。宽政6年闰11月2日(1794年12月23日)、享和2年(1802年)、文化2年(1805年)、文化6年(1809年)8月以及文化8年11月11日(1811年12月26日),清末藩先后爆发御家骚动[2]。
文化15年3月4日(1818年4月9日),藩主毛利匡邦隐居,伊势长岛藩藩主增山正贤次子作为匡邦养子而继位,即毛利政明[8][2],同年3月26日(5月1日)政明死去,近江坚田藩藩主堀田正敦六子作为政明养子而继位,即毛利元世[9][2]。弘化2年7月27日(1845年8月29日),元世死去,长府藩藩主毛利元义十一子作为元世养子在同年9月19日(10月19日)继位,即毛利元承。嘉永2年7月11日(1849年8月28日),元承死去,丰后日出藩藩主木下俊敦四子作为元承养子而继位,即毛利元纯[2]。
文久2年(1862年),清末藩出售江户藩邸,并且转移至樱田的长州藩藩邸内。翌年6月7日(1863年7月22日),高杉晋作在清末藩豪商白石正一郎的住处创立奇兵队。元治元年10月21日(1864年11月20日),清末藩被追究在禁门之变时的责任,大坂藩邸因而被没收。元治2年(1865年)3月,清末藩内有志者65人组成育英队。庆应2年6月7日(1866年7月18日),第二次长州征讨爆发。同年6月16日(7月27日),清末藩与长州藩一同攻击石见滨田藩,元纯为石见国方面总督,育英队也在石见国方面参谋大村益次郎麾下参战。其后,育英队驻守于石见国大森直至明治2年8月大森县成立为止[注 4]。明治3年2月9日(1870年3月10日),清末藩与长府藩联手出兵镇压长州藩的脱队兵。明治4年7月14日(1871年8月29日),废藩置县[2][11][1]。
历任藩主
家名 | 家格 | 名称 | 石高 | 领地 |
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毛利家 | 外样 阵屋 |
毛利元知 | 10,000石 | 长门国丰浦郡 |
毛利元平 | ||||
毛利政苗 | ||||
毛利匡邦 | ||||
毛利政明 | ||||
毛利元世 | ||||
毛利元承 | ||||
毛利元纯 |
领地
令制国 | 郡 | 领地 |
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长门国 | 丰浦郡 | 清末村、小月村、阿内村、上大野村、下大野村、上保木村、下保木村、辔井村、道市村、上冈枝村、下冈枝村、贵饭村、久野村、楢崎村、吉贺村、伊崎浦、竹崎浦 |
注解
参考资料
- ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次、小川国治、国守进、高桥政清、田村哲夫、广田畅久、三浦肇、八木充 (编). 清末藩・清末・埴生・松屋・高泊・東高泊・西高泊. 角川日本地名大辞典 山口県. 角川日本地名大辞典 35 日本文学Web図書館. 角川书店. 1988-12-08. ISBN 4-040-01350-6 (日语).
- ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 利冈俊昭. 清末藩(長府新田藩). 木村础、藤野保、村上直 (编). 藩史大事典 中国・四国編 6 POD版. 雄山阁. 2002-04-15: 387–396. ISBN 4-639-10034-5 (日语).
- ^ 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次、有坂隆道、小林博、作道洋太郎、藤本笃 (编). 江戸堀. 角川日本地名大辞典 大阪府. 角川日本地名大辞典 27 日本文学Web図書館. 角川书店. 1983-10-08. ISBN 4-040-01270-4 (日语).
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- ^ 胁田修、内田九州男、相苏一弘、今井修平、本城正德、渡边忠司、薮田贯、村田路人、山口之夫、中尾芳治、服部昌之. 江戸堀三丁目. 直木孝次郎、森杉夫、大月明、河音能平、田代克己、户田芳实、服部昌之、福岛雅藏、三浦圭一、山口之夫、吉田晶、胁田修 (编). 大阪府の地名. 日本历史地名大系 28 JapanKnowledge. 平凡社. 1986-02-07. ISBN 4-582-49028-X (日语).
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- ^ 毛利元世. kotobank (日语).
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- ^ 旧高旧領取調帳データベース. 国立历史民俗博物馆. [2024-08-15]. (原始内容存档于2020-11-25) (日语).