寺内寿太郎

寺内寿太郎(日语:寺内 寿太郎寺內 壽太郞てらうち じゅたろう Terauchi Jutarō,1900年—?)是日本昭和初期的诗人

寺内寿太郎
职业诗人
国籍 日本
母校庆应义塾大学
亲属山岸外史(表弟)
日语写法
日语原文寺内 寿太郎
假名てらうち じゅたろう
平文式罗马字Terauchi Jutarō
日语旧字体寺內 壽太郞

生平

1900年出生。父亲于日俄战争中亡故后,变辗转于不同亲戚家寄居。受到伯父资助考入庆应义塾大学理财科,即现在的经济系。毕业后就至于公司,因不得志数度离家出走,于伊豆半岛的天城山深处企图自杀,后被亲族发现救回。

其最后一次被公众所见是二战结束后,于日本东京的品川车站。此后便无踪影。

轶事

寺内寿太郎著有一行诗「生れてすみません」(生而在世,我很抱歉),此句被误认为是日本小说家太宰治的名言之一,在太宰治的短篇小说“二十世纪旗手”里被用作副标题[1],但这个句子是盗用寺内寿太郎的[2],而暴露出此事的是太宰治的友人山岸外史(评论家)[3]

脚注

  1. ^ 二十世紀旗手――(生れて、すみません。). 青空文库. [2015年3月14日]. (原始内容存档于2020年11月12日) (日语). 
  2. ^ 竹山. 現代日本文学「盗作疑惑」の研究―「禁断の木の実」を食べた文豪たち. 日本: PHP研究所. 2002/04. ISBN 978-4569621500. 
  3. ^ 山岸外史. 人間太宰治. 日本: 筑摩书房. 1989/08. ISBN 978-4480023377 (日语). “ぼくはふと太宰に〈生れてすみません〉というこの一句の话をはじめたのである。その题は、〈遗书〉で、ただの一行だけの诗であった。ぼくの従兄弟の寺内寿太郎の作品であった。” この寺内という人は诗人を目指していたようで、山岸にその诗を见せ、それを后日、山岸は太宰に话したといいます。そして、“二十世纪旗手”が発表されると、寺内は、“‘これはどうあっても、外史君が関系している。それ以外に、太宰治にあの诗がつたわるはずがない。君の责任を问う’”と怒り心头になったようです。さらに“‘あれは、太宰の盗用だと発表しよう’”と言い始め、それを山岸が必死になってやめさせたということです。これに対して、太宰は言い訳をしたらしく、‘じつは、いつとはなく、あの句は山岸君のかと错覚するようになっていたのですよ’”と。その后、寺内は忧郁症が高じ、行方不明になった、と山岸は书いています。