篠田正浩
篠田 正浩(1931年3月9日—)是出身於岐阜縣岐阜市的電影導演[1]。他是表現社股份有限公司的董事長、早稻田大學的特別教授及日中文化交流協會代表理事。
篠田正浩 | |
---|---|
導演 | |
出生 | |
配偶 | 岩下志麻 |
活躍年代 | 1960年-2003年 |
主要經歷
篠田正浩畢業於歧阜縣立加納高中、早稻田大學第一文學部。高中時代他就是400公尺賽跑的選手,進入大學後加入了早大田徑部。當時早大田徑部的長距離教練、也就是後來培養出了奧運會馬拉松選手瀨古利彥的中村清促使他轉而開始進行長距離賽跑,並參加了東京箱根間大學來回長跑接力賽,擁有在「花2區」出賽的經驗(不過當時3區才是精英區間,2區並非現在所指的精英區間)。他以前曾在箱根接力賽的研討會上表明「箱根接力賽是以箱根的山為目標的,而那些山的彼方就是富士山。所以箱根接力賽其實是年輕人在正月時朝着日本的靈峰奔跑的神聖儀式。」
與大島渚、吉田喜重一起被稱為日本新浪潮的帶頭人,與很早就和公司發生衝突而獨立的另兩個人不同,筱田在松竹呆了很長一段時間。與堅持走前衛難解路線的大島、吉田相比,他還擁有平易近人奉獻精神,雖然說獨立後的1970年代連續推出了多部稜角分明的作品,但是進入1980年代後逐漸安定成為能夠擔任娛樂大片的巨匠。
私生活
導演作品
- 戀愛單程票(戀の片道切符, 1960年)
- 乾いた湖(1960年、腳本:寺山修司)
- 三味線とオートバイ(1961年、原作:川口松太郎)
- わが戀の旅路(1961年、原作:曽野綾子、腳本:寺山修司)
- 夕陽に赤い俺の顔(1961年、腳本:寺山修司)
- 涙を、獅子のたて髪に(1962年、腳本:寺山修司・水沼一郎・篠田正浩)
- 山の讃歌 燃ゆる若者たち(1962年、腳本:白坂依志夫)
- 私たちの結婚(1962年、腳本:松山善三・篠田正浩)
- 暗殺(1964年、原作:司馬遼太郎)
- 乾いた花(1964年、原作:石原慎太郎)※康城影展特別參展影片
- 美しさと哀しみと(1965年、原作:川端康成)
- 異聞猿飛佐助(1965年)
- 処刑の島(1966年、原作:武田泰淳、腳本:石原慎太郎)
- あかね雲(1967年)
- 心中天網島(心中天網島, 1969年、原作:近松門左衛門、腳本:富岡多恵子・武満徹・篠田正浩)※威尼斯影展參展作品、倫敦電影節參展作品
- 無頼漢(1970年、腳本:寺山修司)※阿德萊德電影節評論員獎
- 沈黙 SILENCE(1971年、原作:遠藤周作)※康城影展參賽作品
- 札幌奧林匹克(札幌オリンピック, 1972年、記錄片)※金球獎最佳長篇記錄片獎提名
- 化石の森(1973年、原作:石原慎太郎)
- 卑彌呼(1974年)※康城影展參賽作品
- 桜の森の満開の下(1975年、原作:坂口安吾)
- はなれ瞽女おりん(1977年、原作:水上勉)※亞洲電影節導演獎
- 夜叉ヶ池 映畫(1979年、原作:泉鏡花)
- 悪霊島(1981年、原作:橫溝正史)
- 瀬戸內少年野球団(1984年、原作:阿久悠)※休斯頓電影節外語電影獎
- ALLUSION -転生譚-(1985年)
- 鑓の権三(1986年、原作:近松門左衛門)※柏林影展銀熊獎
- 舞姫(1989年、原作:森鷗外)
- 少年時代(1990年、原作:藤子不二雄A)※日本電影金像獎最佳作品獎
- 寫樂(1995年、原作:皆川博子)※康城影展參賽作品
- 瀬戸內ムーンライト・セレナーデ(1997年、原作:阿久悠)※柏林影展參賽作品
- 梟の城 owl's castle(1999年、原作:司馬遼太郎)※富川國際奇幻電影節導演獎
- 間諜佐爾格(スパイ・ゾルゲ,2003年)
著書
- 『心中天網島 篠田正浩作品集』仮面社, 1970
- 『闇の中の安息 篠田正浩評論集』 (フィルムアート社、1979年)
- 『駈けぬける風景』創隆社, 1980 のち旺文社文庫
- 『エイゼンシュテイン 20世紀思想家文庫』 (岩波書店、1983年)
- 『日本語の語法で撮りたい』 (日本放送出版協會〈NHKブックス〉、1995年)
- 『映畫で出會った人々』緑の笛豆本 1996
- 『監督、撮らずに観る 映畫館では見えてこない映畫の話』 (ステレオサウンド、1997年)
- 『私が生きたふたつの「日本」』 (五月書房、2003年)
- 『河原者ノススメ 死穢と修羅の記憶』 (幻戱書房、2009年)
- 『路上の義経』 (幻戱書房、2013年)
- 『篠田正浩映畫講義』城西大學出版會, 2016
- 『卑彌呼、衆を惑わす』(幻戱書房、2019年)
- 「小津安二郎を聞く」『小津安二郎 大全』(朝日新聞出版、2019年)収録
共著編
獲獎經歷
- 1991年:第14回日本電影金像獎最佳導演獎(《少年時代》)