足利滿兼
足利滿兼(日語:足利満兼/あしかが みつかね Ashikaga Mitsukane,1378年—1409年9月1日)是日本室町時代前期武將,第3任鎌倉公方(任期為(在職:應永5年(1398年) - 應永16年(1409年)),父親是室町幕府第2任鎌倉公方足利氏滿。
足利 滿兼 | |||||||||||||
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鎌倉公方 | |||||||||||||
前任:足利氏滿 繼任:足利持氏 | |||||||||||||
鎌倉公方 | |||||||||||||
國家 | 日本 | ||||||||||||
時代 | 室町時代前期 | ||||||||||||
主君 | 足利義滿 | ||||||||||||
氏 | 足利氏 | ||||||||||||
假名 | あしかが みつかね | ||||||||||||
羅馬拼音 | Ashikaga Mitsukane | ||||||||||||
位階 | 從四位下 | ||||||||||||
世系 | 足利氏 | ||||||||||||
幼名 | 金王丸 | ||||||||||||
出生 | 天授4年/永和4年(1378年) | ||||||||||||
逝世 | 應永16年7月22日(1409年9月1日) | ||||||||||||
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生平
滿兼是第2代鎌倉公方足利氏滿的嫡長男。父親在他元服時以第3代將軍足利義滿授用的偏諱命名為滿兼[1]。繼承父親成為鎌倉公方與京都將軍家的持續關係緊張。應永6年(1399年)10月,大內義弘於堺城出兵反對義滿是為應永之亂,滿兼打算呼應義弘[2],出兵離開鎌倉由武蔵府中(東京都府中市)進軍[3],但是被關東管領上杉憲定勸阻[4],沒有如期舉兵,導致大內義弘陷入孤軍奮戰。12月義弘敗死。翌年3月5日退兵回鎌倉。6月15日,滿兼通過在伊豆三島神社納願文表示對幕府恭順之意,最終其罪被赦免[5]。
應永6年(1399年)春,滿兼分別封其弟滿直為篠川御所、滿貞為稻村御所以將陸奧及出羽的鎌倉府管轄權交給二人[6]。但是,這項措施令奧州豪族反感,應永9年(1402年)與室町幕府有良好關係的伊達政宗[7]出兵起義,上杉氏憲(其後的上杉禪秀)出兵鎮壓。這時候,有傳言流傳滿兼在京都瘋了,義滿與滿兼進行和解,但是不久兩人又再度爭執[8]。
應永14年(1407年)8月29日,鎌倉御所被燒毀,但是很快便重建[9]。應永16年7月22日逝世,享年32歲。由長男持氏繼承鎌倉公方之位。
參考資料
- ^ 鎌倉時代の足利氏歴代當主および鎌倉公方家で代々使用されてきた「氏」の字と義満の片諱の併用が、父・氏満と同様になるため「氏」の字は避け、祖先にあたる足利義兼(足利氏第2代當主)より1字を取った。こちらも參照のこと。
- ^ 満兼の挙兵の目的は「天命を奉じて暴亂を討ち、まさに國を鎮め民を安んぜしめんとす」だった(『寺門事條々聞書』)。田辺久子『人物叢書 上杉憲実』吉川弘文館。42頁。
- ^ 満兼はあくまで義満の援軍と稱しており、武蔵に滯在して様子見していたという。『鎌倉・室町人名事典』24頁。
- ^ 義満は関東の出兵に対して憲定に応永6年12月2日付で書狀を出して詰問した。これに対して憲定は心配ない旨を回答した(『上杉家文書』)。なお、憲定はこの時期は正式には関東管領ではない。憲定は武蔵に在陣する満兼をしきりに諫言した。田辺久子『人物叢書 上杉憲実』吉川弘文館。42頁。
- ^ 願文では自らの力量不足で天命がかなわなかったことを嘆いている。『鎌倉・室町人名事典』24頁。
- ^ 史料によっては満直を稲村御所、満貞を篠川御所としているものもある。
- ^ 與安土桃山時代顯赫的伊達藤次郎政宗同名。藤次郎政宗是伊達政宗的8代後子孫。
- ^ 『鎌倉・室町人名事典』24頁。田辺久子『人物叢書 上杉憲実』吉川弘文館。42頁・43頁。
- ^ 田辺久子『人物叢書 上杉憲実』吉川弘文館。43頁。
參考文獻
- 田辺久子. 『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』. 吉川弘文館. 2002年. ISBN 9784642077897 (日語).
- 田辺久子. 『人物叢書 上杉憲実』. 吉川弘文館. ISBN 4-642-05215-1 (日語).
- 『鎌倉・室町人名事典』. 新人物往來社 (日語).