第26师团
(重定向自第26師團 (日本陸軍))
第26師団 | |
---|---|
存在時期 | 1937年(昭和12年)9月30日 (独立混成第11旅团) |
國家或地區 | 大日本帝国 |
部門 | 大日本帝国陆军 |
規模 | 混成旅団/兵団/师团 |
別稱 | 泉 |
參與戰役 | 日中战争-太平洋战争 |
沿革
1937年(昭和12年)9月30日以独立混成第11旅团编成第26师团。是第一个「三單位編制師團」,所辖的步兵連隊都继承了独立混成第11旅团时的番号,以「独立」冠名。師團編成後,从凉城县发动了綏遠、包頭攻略戰。1938年(昭和13年)1月编入駐蒙兵團序列。
1944年(昭和19年)7月,调菲律宾方面军,在搭乘ヒ71船團至马尼拉時,因船團受美軍潛艇襲擊,本師團喪失約7000人。在莱特岛战役中奧爾莫克灣戰役,损失了装备与供给物资。后续供应船队也被击沉,最终包括师团长以下大都战死。残部在Kangipot山脉[哪裡?]坚持至终战。第11步兵联队未去莱特岛,在Balete山谷[哪裡?]参战。
司令部人事
歴代司令官
- 独立混成第11旅团長
- 铃木重康少将
- 第26師団長
- 後宮淳 中将:1937年(昭和12年)10月5日陆军省军务局长 - 1939年(昭和14年)8月1日
- 黑田重德 中将:1939年(昭和14年)8月1日 - 1941年(昭和16年)6月30日
- 矢野音三郎 中将:1941年(昭和16年)6月30日 - 1942年(昭和17年)4月1日
- 柴山兼四郎 中将:1942年(昭和17年)4月1日 - 1943年(昭和18年)4月8日
- 佐伯文郎 中将:1943年(昭和18年)4月8日 - 1944年(昭和19年)7月18日
- 山県栗花生 中将:1944年(昭和19年)7月18日 - 1945年(昭和20年)2月5日(戦死)
- (心)栗栖猛夫 少将:1945年(昭和20年)2月7日 - 1945年(昭和20年)7月17日(戦死)
歴代参謀長
- 第27師団参謀長
- 白銀重二 航空兵中佐:1937年(昭和12年)10月5日 - 1939年3月9日[1]
- 长勇 歩兵大佐:1939年(昭和14年)3月9日 - 1940年8月1日[2]
- 黒田茂 砲兵大佐:1940年(昭和15年)8月1日 - 1942年3月11日[3]
- 萩三郎 大佐:1942年(昭和17年)3月11日 - 1943年9月11日[4]
- 加藤芳寿 大佐:1943年(昭和18年)9月11日 - 1945年(昭和20年)7月27日(戦死)[5]
歴代兵器部長
歴代経理部長
歴代軍医部長
歴代獣医部長
隷下部隊
1937年(昭和12年)当時の編制
- 師団司令部
- 第26歩兵団(1943年(昭和18年)3月18日裁撤步兵团、歩兵連隊由後師団直率)团长黑田重德
- 第26歩兵団司令部
- 独立歩兵第11連隊 联队长千田贞雄大佐
- 独立歩兵第12連隊 联队长原口启之助大佐
- 独立歩兵第13連隊 联队长久野村桃代大佐
- 独立炮兵第26連隊 联队长入江莞尔大佐
- 独立山炮兵第12联队 联队长塚本善太郎大佐
- 工兵第26連隊 联队长吉冈善四郎中佐
- 輜重兵第26連隊 联队长椎桥侃二中佐
- 第26師団捜索隊 队长岩田文三中佐(骑兵、装甲兵混成)
- 第26師団通信隊 队长船户东大尉
- 第26師団兵器勤務隊
- 第26師団野戦病院
- 第26師団病馬廠
最終所属部隊
- 独立歩兵第11連隊(津):津田佃大佐
- 独立歩兵第12連隊(岐阜):今堀銕作大佐
- 独立歩兵第13連隊(静岡):森岡信之丞大佐
- 独立野砲兵第11連隊: 馬場喜重大佐
- 工兵第26連隊:品川弥治中佐
- 輜重兵第26連隊:新村理市大佐
- 第26師団通信隊:内ヶ島芳男少佐
- 第26師団兵器勤務隊:山田清次郎大尉
- 第26師団野戦病院:武藤有一軍医少佐
- 第26師団病馬廠:吉田周一獣医少佐
部隊歌
脚注
参考文献
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。